Tatsuya Nishiwaki Official Website

BIOGRAPHY

少年時代からサウンドプロデュースの道

プロフィール

西脇辰弥 プロフィール

西脇辰弥

愛知県岡崎市生まれ。刈谷市育ち。
6歳でピアノ、10歳で作曲を始める。名古屋大学工学部金属鉄鋼工学科在籍時よりプロ活動開始。
1987年音楽ユニットPAZZのメンバーとしてCBS SONY(現SONY RECORDS)よりアーティストデビュー。以来作編曲家、音楽プロデューサー、鍵盤奏者、クロマティック・ハーモニカ奏者、サウンド・デザイナーとして数々のアーティストのレコーディングやライブに関わる。

受賞歴

  • 1994年 ビクターヒット賞
  • 2005年 日本ハーモニカ賞
  • 2019年 平成アニソン大賞

生い立ちからプロになるまで

1964年7月28日愛知県岡崎市生まれ、刈谷市育ち。

最も古い記憶:幼稚園年少のころ、制服のポケットに黒のクレヨンを入れたまま忘れてしまい、母親がそれに気づかずその制服を洗濯機に投入。「辰弥っ!!!これ見なさい!!!!」という母親の叫びに驚き、洗濯機に駆けつけて洗濯槽をのぞき込むと、クレヨンが通った軌跡と思われるグルグルな模様が...まるで時空移動中のタイムマシンのような状況がツボにハマり大爆笑!! 母親にどんなに叱られてもその爆笑は収まることがなかった。

父:トヨタに勤める会社員。スポーツ万能、DIYで車庫から倉庫から家具まで何でも作る。そのクオリティーが半端なかった。竹の物干し竿を切り出して竹とんぼを作ってくれたのも、最も古い記憶のひとつ。

母:草月流の生け花師。自宅の一室を使ってたくさんのお弟子さんを教える。草月流の特徴なのか当時の流行りなのか、わけのわからない形状の鋳 物のオブジェを生け花とコラボさせたような作品が、家のいたるところに あった。

幼稚園年長のころ、実家の近所に住んでいる同い年の女の子の家によく遊びに行っていた。その子の家にはピアノがあり、遊びに行くとよくピアノを弾いてくれた。今思えばそれは黄色い方のバイエル曲。とてもエキサイティングな体験だったことで、「僕もピアノを習いたい」と親に懇願したらしい。親も「男の子がピアノを習いたいなんて言うのは珍しい、面白いじゃないか」と息子にピアノの個人レッスンに通わせることにする。6歳になりたてのころだった。

3歳年下の弟がいる。ある日の雨上がり、弟が持っていた壊れかけた黄色い傘を奪い取り、上下に振っていると、傘の布部分が次々に骨から外れ、骨は形状を保ったまま、布だけが傘上部にくしゃくしゃっと固まった!!! その絶妙なフォルムにツボって大爆笑!! 泣き叫ぶ弟4歳「お兄ちゃんが傘壊した!!!」母親に言いつける。そして母激怒。しかしどんなに叱られてもその爆笑は収まらなかった。

小学3年のころ、父親が大きなオーディオのセットを買ってきて、家で大音量でクラシック音楽を聴くようになった。その影響でクラシック音楽にハマる。まずモーツァルトのトルコ行進曲。それまでわりと惰性で先生から与えられた曲を練習してきたピアノだったが、自分から「この曲が弾きたい!!」となった瞬間だった。

小学4年のころ、学校にブラスバンド部が新設されて、入部を勧められる。 譜面が読めて楽器が弾ける人材は貴重だったからだ。ほんとは水泳部に入りたかったのだが、「ブラスバンド部に入らなければピアノを止めさせる」と父親に脅されやむなく入部。トランペットを担当。名古屋フィルハーモニー管弦楽団の首席トランペット奏者に師事。

小学6年のころ、友達の家で冨田勲氏の「惑星」を聴き衝撃を受ける。すでに部活の人間関係に疲れ果て、素人が集団で音楽をすることの難しさを痛感していたため、多重録音を駆使してたったひとりでものすごい音楽を作ってしまう冨田氏の存在はまばゆいばかりの夢のようだった。

中1のころ、ピアノの楽譜だけでなく、オーケストラのポケットスコアも収集するようになる。オーケストラのレコードを聴きながらスコアを見るのが至福の時となった。後に大編成のオーケストレーションができるようになったのは、このころの体験がベースとなった。しかしそんなことを続けていたため次第に近視になっていった。親戚に誰一人近視がいないにもかかわらず...

音楽の趣味は先ほどのモーツァルトからベートーヴェン、ショパン、リスト、 チャイコフスキー、ラフマニノフ、スクリアビン、ストラヴィンスキーと、時代を追体験するかのように変遷していったが、中2のころついにEarth Wind & Fireにリアルタイムでハマる。そのころからブラック・ミュージックをはじめハードロックやAOR、メタルからプログレ、フュージョンにまで次々とハマる。

中3のころ、EW&Fの楽曲もクラシックのオーケストラ曲と同じようにスコアが存在すると信じて疑わなかったため、EW&F楽曲のひとつを耳コピで12段の五線紙を使ってスコアを作成。選んだ楽曲は「Jupiter(邦題:銀河の覇者)」。12段にした理由は、EW&Fの正式メンバー9名とフェニックス・ ホーンズ3名、合計12名だから。思えば自分の担当楽器だけでなく、全てのパートを把握しようとするマインドは、アレンジャー西脇辰弥の原点かもし れない。しかしながら、EW&Fや他のブラック・ミュージックのアーティストたちが、実際にどんな過程を経て作品をレコーディングしていたのかを知る のは、プロになってから。それは当時では想像すらできないやり方だった。

高1のころ、念願の初めてのシンセを入手。KorgのΔ (デルタ)だった。部活にも入らず、バンドもやらずこのシンセと2台のカセットデッキを使ってひたすら多重録音をする高校生活。でも勉強はわりとできました(笑)。

高2のころ、「ヤン・ハマーはシンセを使って、ギタリストを食いかねないようなギター的な演奏をする」というキーボードマガジンの記事を読み、自分もやってみようと決意。そのころはまだヤン・ハマーの演奏を聴いたことがな かった。まず、いろんな方法でシンセの音をを歪ませてみた。オーディオセッ トのプリメインアンプのマイク入力に入れてみたり、そのころ持っていたシンセ用のミニアンプに過大入力してみたり、この場合あまりに音がうるさすぎ るので、ミニアンプの回りを複数の座布団やクッションで覆ったりした。そしてピッチベンダーを使ってギター特有のフレージングをマネして弾いてい た。

ピッチベンドのレンジは最初こそ2度という極めて一般的なものだったが、 そのうち、ピッチベンド・レンジは大きいほど面白いと気づき、短3度、4度、5 度と広がっていき、最終的にKorgのΔで設定し得る最大値(1オクターブ 弱、なんか中途半端な音程だった)となった。そんなとんでもないピッチベンド・レンジでシンセを弾く者が世界的にも自分ぐらいしかいないという事実に気が付くのは、プロになり、海外でも仕事をするようになってから。 その後、友人からエレキギターを借りて練習するも、全く上達せず挫折。以降、リードギターのようにシンセを演奏するという演奏スタイルは、自分の中の重要な芸風のひとつとなっていく。

1983年、国立名古屋大学工学部金属鉄鋼工学科に入学。

同年、父親の趣味で、家族全員PADI(スキューバダイビング)のオープン・ウォーター・ダイバーのライセンスを取得。 同じころ家庭教師のアルバイトで稼いだ金で、2台目のシンセRoland SH-101、そして3台目のシンセYAMAHA DX-7を購入、またほぼ同時にYAMAHAのブレスコントローラーBC1も購入。シンセの管楽器的な表現にも目覚める。そしてこれも自分の中の重要な芸風のひとつとなっていく。

大学では「名大フォークソング同好会」なるサークルに所属。どうしてもドラムがやりたかったので仲間を探したところ、同じ学年で同じ学科のギター を弾く男が一緒にやろうと言ってくれた。ただし彼は「俺はへヴィーメタルしかやりたくない」と言う。ドラムが叩ければどんなジャンルでも構わなかったので、他にベーシストとヴォーカルを入れてバンドを結成。ラウドネス、アースシェイカー、モトリークルー、オジーオズボーン等の楽曲をカバーする。

大学2年のころ、初めて歌ものの曲を2曲作曲する。つまりそれまではインストの曲しか作ったことがなかった。その2曲をなんとか形にしたいと考え、名古屋市内にあるレコーディングスタジオを自腹で借り、知り合いの女性シンガーとともに録音。これが後の、谷村有美さんの歌う「かもめのように」そして「Half Moon」となっていく。 このレコーディングスタジオは、CMやイベントの音楽を制作していた関係で、音楽制作の仕事をもらうようになる。また同時期に、Rolandのシンセの デモンストレーターの仕事もするようになり、これを機に名古屋で一人暮らしを始める。

いろいろと幸運だった。レコーディングスタジオの社長は「空いてるときは自由にスタジオ使っていいよ」と言ってくれて、また、Rolandからは最新鋭のシンセや高額な機材を貸与され、それらを駆使してデモ音源をレコー ディングしまくった。その音源の中には、後に谷村有美さんが歌う「朝は朝 嘘は嘘」「傘を持って出かけよう」「消せない思い」区麗情さんが歌う「ドキュ メンタリーフィルムみたい」等の楽曲の元になったものも含まれている。

アーティストデビューまで

1987年初頭、購入を検討していたシンセのラック「Oberheim Matrix6」を試奏しようと、当時住んでいた名古屋市昭和区の家からほど近い楽器店に行ったところ、以前には展示されていたはずのそのシンセが見当たらない。店員からは、「ほんなもんいっつか売れてまったわ(名古屋弁:そんなものとっくの昔に売れてしまったよの意)」とつっけんどんな態度。もうこんな店では何も買ってやるものかと、遠く名古屋市北区にある大きな楽器店に行くことに。もちろんそのシンセは展示されており、試奏もできて、無事購入。
そしてそのときある出会いがあった。
偶然その楽器店に来ていた岩田雅之氏を店員さんから紹介されたのだ。岩田氏は後にSMAP等への楽曲提供等で名声を博すその人で、当時は東京に移り住んでいたのだが、彼の実家は愛知県一宮市にあり、たまたま帰省していて、一宮からも近い名古屋市北区のその楽器店に遊びに来ていたのだ。
「自分はアルバムを作ってアーティスト・デビューすることになっているんだよ」と岩田さん。
当時の地方都市名古屋の音楽業界には「誰々がデビューするだのしないだの」とか「東京には負けねえ、名古屋から発信するだのしないだの」といった、そもそもビジネスとして成立するかどうかも怪しいような胡散臭い話がいっぱいあって、反射的にまたそういう類の話かと勝手に思ってしまい思わず…
「自主制作ですか?」とはなはだ失礼な返しをしてしまう。
「いやいや東京のCBS Sony(現Sony Records)からだよ」と岩田さん。
「えーーっマジっすか!!!!」

そして岩田氏と意気投合し、岩田氏の車のカーステレオでデモ音源を聴かせてもらい、そのクオリティーの高さに感動。後日西脇のデモ音源も岩田氏に聴いてもらい多重録音マニア同志としてさらに意気投合。

「実は自分はソロ・アーティストとしてでなく、女性ヴォーカルと男性キーボード奏者を入れて、3人組のユニットとしてアルバムを作ろうと考えている」と岩田さん。
「キーボード奏者はまだ決まっていないから、東京にオーディション受けに来なさい」

早速名古屋のレコーディングスタジオで、自作曲のマイナスワン音源を作り、ショルダーキーボードRoland AXISを担いで東京へ。

オーディション会場は今は無き信濃町のSonyのレコーディング・スタジオの一室。審査するのはレコード会社関係者や事務所関係者、それに音楽出版関係の皆さん。AXISは音源内蔵ではないので、現地でYAMAHA DX-7を用意してもらった。そして歪みエフェクターRATTも使い、マイナスワン音源を鳴らしながらショルダーキーボードを弾き倒し、見事オーディション合格!! すでに女性ヴォーカルとして決まっていた藤原美穂さんと3人でPAZZとしてユニットが発足。

1987年5月上京。6月から7月のレコーディングを経て9月1日、PAZZデビューアルバム「bananafish」リリース。

作編曲家サウンドプロデューサーへ

1987年9月1日、岩田雅之氏、藤原美穂氏とともに3人組音楽ユニット PAZZとしてアーティストデビューを飾ることができたのだが、早くも困難が待ち受けていた。まず、1987年9月1日のアルバムリリース直前に藤原美穂氏が脱退。後任の女性ヴォーカルも素行に問題があり、さらに岩田氏がライブ活動を拒否したため、プロモーションが行き詰まる。結局1枚のアルバム、1枚のシングル、1枚のミニアルバムを残し、約1年でPAZZは解散と なる。

そのころから、名古屋時代に書き溜めた曲のデモ音源を、音楽ディレクターさんたちに聴いてもらうようになる。その中から初めて、世に出る作品となったのが、当時ブレイク直前だった谷村有美氏の歌う「かもめのように」 と「朝は朝嘘は嘘」(アルバム「Face」収録1988年)。両曲とも、歌以外のパートを西脇のひとり多重録音で構成している。「朝は朝嘘は嘘」の間奏では、高校生時代から培った、リードギターのようなシンセで途中から2本3本と重なっていくという、完全に構築されたソロをレコーディングしている。

そして次に谷村有美氏に提供した「Half Moon」、「がんばれブロークン・ ハート」(アルバム「Hear」収録)からは、ひとり多重だけにこだわらず、ドラムに山木秀夫氏を起用したり、サックスに本田雅人氏を起用したりと、徐々に 生身の一流ミュージシャン達との交流を深めていく。

1989年4月、前述の「がんばれブロークン・ハート」がオリコンランキング初登場33位に。このころから、作曲、編曲の仕事が、ガールポップのジャンルを中心に増えてくる。

1990年、英ロックバンド、クイーンのお笑いコピーバンド「GUEEN(グイー ン)」を趣味で結成。担当はバンマス&ドラム。同年7月、TBSのバンド・オー ディション番組「三宅裕司のいかすバンド天国」にノリで出場し「We Are The Champions」を演奏。見事完奏し、審査員特別賞を与えられる。同番組からは、BEGIN、マルコシアス・バンプ、BLANKEY JET CITY等の有名バンドが輩出されている。

1994年、井上睦都実氏及び区麗情氏をサウンド・プロデュースするにあたり初の海外レコーディング(L.A.)。カルロス・ヴェガ(dr)、チャド・ワッカーマ ン(dr)、マイク・ベアード(dr)、ジミー・ジョンソン(bs)、リー・スクラー(bs)、 ワディー・ワクテル(gt)、アレックス・アクーニャ(per)等、当時のL.A.の第一 線で活躍する超一流ミュージシャンと共演。

1995年、クイーンの楽曲をメドレーにして、パッパラー河合氏が直訳日本語で歌う(訳詞はサンプラザ中野君)という企画もの「女王様」に、サウンド・ プロデューサーとして起用される。GUEENをやっていて(クイーンの楽曲に 精通していて)、編曲ができる人材、というのが起用の決め手だったようだ。

同年、高橋由美子氏のシングル「3年過ぎた頃には」の編曲でビクター ヒット賞受賞。

1996年、「女王様」が成功し、また、サンプラザ中野君、パッパラー河合氏と出会ったことが縁で、爆風スランプの次のアルバムのサウンド・プロ デューサーに抜擢される。当時同バンドは解散の危機的状況にあったが、 それでも「怪物くん」、「ハードボイルド」といった2枚のアルバムを完成させ、バンドの寿命を2年以上延命させることに成功。また、シングル「旅人よ」もヒットし、その成果もあってか1998年ごろからは、Plastic Tree、pierrot といったヴィジュアル系とも呼ばれたカリスマバンドのプロデュースの仕事も増えてくる。

2000年、初のソロアルバム「Atmosphere」をビクター アオシス レーベル よりリリース。

2001年、レニー・ホワイト(dr)、クリス・ミンドーキー(bs)等と共演した ニューヨーク録音も含む2枚目のソロアルバム「Sound Of Gravity」リリース。

2002年、開発に深くかかわったRolandのシンセサイザー、V-Synthのプ レゼンテーションを浜松の同社研究所内にあるホールで行う。オーディエ ンスは200人ほどの世界各国から集まった、楽器のディーラーやアーティスト等。赤外線のビームを手で遮ることで音色をコントロールする D-BEAMのパフォーマンス等が好評となり、翌年のフランクフルト・ムジー ク・メッセ2003に出演が決まる。フランクフルト・ムジーク・メッセとは、毎年3月にドイツのフランクフルトで行われる、ヨーロッパ最大の音楽と楽器 のイベントである。

このころより、世界各地(ドイツ、イギリス、フランス、中国、台湾、シンガポー ル、ヴェトナム、マレーシア等)でRolandのシンセサイザーのプレゼンテー ションのオファーがくるようになり「Synth GURU(シンセの伝道師)」と呼ばれるようになる。またプレゼンのための英語力も飛躍的に向上する。

2003年、NHKスペシャル「鳥海山」の音楽を担当。劇伴方面にも仕事の幅を広げる。

2004年、ハーモニカ音楽の普及と発展に努めたとして「日本ハーモニカ 賞」受賞。

2005年、竹内まりや氏の作品を一流海外アーティストがカバーする企画アルバム「Sincerely」に参加。ボビー・コールドウェル、ロバータ・フラック、 ポインター・シスターズ、リチャード・マークス等が歌う楽曲のアレンジを担 当。

2006年3月、フランクフルトで行われたイベント「Synth Night」にて、 King Crimson、Yesといったプログレッシブ・ロック界を牽引し、後にAsiaを結成するジョン・ウェットン(vo,bass)、ジェフ・ダウンズ(key)らと共演。 Asiaの大ヒット曲を演奏する。Asiaの楽曲にはギターが必要だったのだが、「Synth Night」というイベントの性質上、主催者がギタリストの出演を許さず、シンセを歪ませてエレクトリック・ギターのように演奏できる西脇に オファーが来ることに。 同年8月、Rolandのプレゼンテーションで初の南アフリカツアー。

2008年、日本テレビのオーディション番組「歌」&「歌い人」発掘バラエティ歌スタ!! Find the STAR Singer & the STAR Song!(通称「歌スタ」) に、歌い人ハンター(同番組内での審査員の呼称)として出演。

2009年、NHK Eテレの子供番組「おかあさんといっしょ」に提供した楽曲 「ドンスカパンパンおうえんだん」が1月の「今月の歌」となり、放送開始直後から「子供が狂ったように踊りだす」と人気を集め、着うたフルでの配信数が配信開始後わずか2週間でトップ5入りを果たす。2月になって曲が変わっても人気が衰えず、3月に「おかあさんといっしょ」の楽曲としては異例のシングルCD(マキシシングル)として発売される。これ以降、Eテレ子供番組の楽曲提供や編曲のオファーが来るようになる。 昨今ではEテレ番組「みいつけた」の人気キャラクター、オフロスキーが歌う楽曲等。

同年、宝塚歌劇団出身のシンガーAKANE LIV氏と出会い、日本初のシンフォニック・メタルバンド「LIV MOON」を結成。日本最大級のへヴィーメタ ルイベント「Loud Park2009」に出演。メタル界に衝撃を与える。以来現在までに同バンド名義で5枚のアルバムをリリース。

2010年、LIV MOON初の海外公演。スウェーデンのイェテボリにて、AKANE LIV氏と西脇に現地の一流ミュージシャン達を迎えてのパフォーマンス。

2011年、Rolandのシンセサイザー、JUPITER-80のPVにオリジナル楽曲 とともに単独出演。クロマキー撮影を駆使した「分身の術」的な演出と、ドラマティックなパフォーマンスが評判を呼び、現在再生回数は16万回を超えている。

2012年、米人気ロックバンドEXTREMEのジャパンツアー 「Pornograffitti完全再現ツアー」にキーボード・プレイヤーとして参加。シンセの音作りに長け、またシンフォニックメタルバンドLIV MOONのオリジネイターであること、そして同バンドのマネージャーが、先述のJUPITER-80のPVを見たことが起用の決め手だったようだ。

2014年、息を使って管楽器のようにシンセをコントロールする機器、ブレ スコントローラーを独自開発。その名もnew-type breath controler。デモ動画をyoutubeにアップするも世界中から反響が。同年4月ネット販売 開始。国内のみならずアメリカ、ドイツ、イギリス、イタリア、フランス、ブラジル等にもユーザーを数える。

2015年、世界最大のアニメソングのライブイベント「Animelo Summer Live2015(於さいたまスーパーアリーナ)」に音楽ユニット「メロキュア」のサポートとして出演。神曲とも位置付けられているアニソン楽曲「Agape (編曲:西脇辰弥)」等でピアノ及びハーモニカを演奏。

2016年、再びEXTREMEのジャパンツアーにキーボード・プレイヤーとし て参加。20分にも及ぶ彼らの大作「Everything Under The Sun(1992 年発表)」の世界初のライブでの演奏に貢献する。

2017年、2月、人気アニメ作品「超時空要塞マクロス」から生まれた女性5人組音楽ユニット「ワルキューレ」の横浜アリーナ2days公演にバンドマスターとして参加。6月、以前から楽曲提供やライブサポートで関わっていたアーティスト中島 愛氏の活動休止後の復活ライブ(於品川ステラボール)にてバンドマスターとして参加。チケットは即日完売。

同年亡くなった伝説のギタリスト アラン・ホールズワース氏を偲び "西脇辰弥presents トリビュート for アラン・ホールズワース"を主催する。

2018年 2月、音の醸し人®コンサート第1回を岐阜県中津川市のはざま酒造にて開催。

3月、先述の「ワルキューレ」横浜アリーナ2days公演に再びバンドマス ターとして参加。

2018年7月 数多くのジャズ、フュージョン系アーティストを世に送り出し、生前交流もあった名プロデューサー伊藤八十八氏が中心となり発足したイベント、第7回軽井沢ジャズフェスティバル@軽井沢大賀ホールに「西脇辰弥 The Prominence」として出演する。

西脇辰弥 出演ライブ情報 MACROSS CROSSOVER LIVE 2019

8月、RolandのフラッグシップシンセサイザーSYSTEM-8のPVに出演。従来のシンセサイザーではあり得ない音色変化と表現力、そしてそれを可能にするダイナミックなパフォーマンスが話題を呼び、現在23万回を超える再生回数を記録している。

11月 2016年に惜しくも他界したジャズ・ハーモニカの巨匠 トゥーツ・シールマンス氏を偲び "西脇辰弥presents トゥーツ・シールマンス トリビュート2018"を主催する。演奏もさることながら、トゥーツ・シールマンス本人とのエピソードや、緻密な研究に根差したトークも好評を博す。

11月、自身の音楽活動をさらに主体的に推し進めるべく株式会社 UNIKAT PROJECT発足。

2019年 3月、編曲を手掛けた作品「Agape(メロキュア)」で平成アニソン大賞受賞。